猫と一緒にトルコへ移住
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2020年5月
さて、コロナのおかげで日本に戻る羽目になった私は、猫の輸出手続きに奔走していた。
まず、流れはこうだ。
①マイクロチップ埋め込み後狂犬病注射一回目。「マイクロチップ証明書と狂犬病一回目の証明書」をもらっておく。
②30日間待機後二回目接種。「狂犬病二回目の証明書」をもらっておく。
③30日待機後血清を取り、センターへ発送。二週間で「二年間有効の抗体証明書」が届く。届いたらNACCS申請。
④出国二日前に民間の獣医による、「トルコ大使館所定フォームを使用した健康証明書」を作成。任意で猫ワクチン接種。「ワクチン証明書」
⑤当日日本の空港で検疫を受ける。「輸出証明書、緑色のタグ」(無料)
★日本の検疫所に提出する書類⇒「マイクロチップ証明書と狂犬病一回目の証明書」「狂犬病二回目の証明書」「猫ワクチン証明書」(いずれも原本)
★トルコの検疫所に提出する書類⇒「二年間有効の抗体証明書」(コピー)「輸出証明書、緑色のタグ」「トルコ大使館所定フォームを使用した健康証明書」(原本)
★日本帰国時まで自宅保管する書類⇒「二年間有効の抗体証明書」(原本)
※費用は民間獣医に二匹で34000円。抗体証明書で二匹26000円。マイクロチップリーダー6000円。国内線飛行機代12000円。国際線飛行機代480ドル。
詳細は以下にリンク
トルコ大使館ホームページ
東京検疫所
狂犬病抗体検査
コロナウィルス
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2020年4月
三月の中旬頃からトルコでもコロナの影響が出始めた。
この頃はイタリアでの大流行なども連日のニュースになっており、トルコでは感染者数や情報すらまだ多くは無かったけれども、不穏な空気は流れ始めていた。
今までに経験のない世界中が巻き込まれつつある未曽有のパンデミックである。
この時点ではほとんど確実な情報がない。
憶測が憶測を呼び、人々の不安は増していた。
明るくて人懐こいトルコ人ですら、疑心暗鬼の目でアジア人を見るようになっていた。
ボディビルの合宿から戻って一週間もすると、スターバックス、マクドナルドなどのチェーン店の飲食店などが次々と休業になり始めた。
街を歩くだけで、子供たちに
「チン、コロナ」と指を指されるようになった。
チン、とは中国の事であり、トルコではこの時点ではこの史上最悪のウィルスは中国産であると信じられていた。
だから、ぱっと見、中国人の私は、犯人呼ばわりなのである。
店で買い物をしても、しばしば、お金を渡す前に、
「チン?」
と聞かれた。
「ジャポン」
と答えるとほっとしたように、お金を受け取ってくれた。
この状況では、本物の中国人は生活がさぞや不便であったろう。
後日談ではあるが中国人たちはこのようなケースの場合「日本人だ」と言って逃げきっていたらしい。同じ顔でも日本人と答えたほうが、あたりが柔らかいことを彼らは学習していたからである。
ウィルスを作ったにしろ、作ってなくても隠蔽した政府の責任はあるかもしれないが、個人の中国人に矛先を向けるのはお門違いだろう。
しかし、正体不明の脅威には怒りの矛先が必要ではある。
人々は悪者を作り上げることで、自分の不安と折り合いをつけることができる。
そんなわけで、状況は少しずつ悪くなっているようであった。
しかし、この段階ではまだ、トルコの感染者はほとんどニュースにもなっておらず、あくまでも対岸の火事程度の認識ではあったのだ。
そして、トルコは、感染者が少ないうちに鎖国を敢行することにしたらしい。
全ての国際線をストップすると発表した。
とりあえず日本行きの最終フライトは24日だった。
外務省からメールが届いたので、私は緊急帰国することにした。
もしも、猫がここにいれば私は残っただろう。
しかし、いつ次の飛行機が動くかどうかわからない状況で、猫を日本に置き去りにするわけにはいかなかった。
空港は閑散としており、デパーチャーボードのほぼ全ての便が欠航となっていた。
こんな有様は初めて目にした。
とんでもないことになっているのだろうか?
普段はのんきな私もさすがに背筋がゾクッとした。
さて帰国後、ロシアとトルコからの渡航者だけ集まるように言われた。
この時点では日本を含むアジアとヨーロッパの感染が深刻だったが、ロシアとトルコはハザードマップでもまっさらだったので、検疫が免除されたのである。
検疫は長蛇の列で、それを尻目にロシアトルコ組はすんなり日本へ入国することができた。
ロシア、トルコはこれ以降徐々に感染が広まっていくことになるのだが、この段階ではまだ非汚染地域だったのである。
帰宅後は念のため二週間自粛した。
しかし、日本の家は売りに出す状態にしていたので、インターネットも解約しており、家具類などもまともなものは、春から大学生になる姪にすべて譲った後だった。
漫画やゲームなどの娯楽品もすべて処分してしまっていたので、何もやることがなく、
がらんとして何もない家に、暮らすのはとても手持無沙汰だった。
唯一良かったことと言えば、気がかりだった猫の輸出の準備を全部自分でできることだった。
ペットシッターさんはとても良心的でほんのわずかのキャンセル料だけで返金に応じてくれた。
ここは料金もびっくりするほど安いのに、とても丁寧で、戸締りと猫と遊ぶ姿もすべて動画で送ってくれて、毎回海外旅行の際に利用していた。
※リンク貼っときます。
ボディビルコンテスト
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2020年3月
2月にはプラハとボストンに行き、観光を存分に楽しんで日本へ帰国した。
これは後で他人に指摘されて気づいたのだが、今回12月に日本からクシャダスへ。
2月にトルコからプラハ。プラハからボストン。ボストンから日本。
フライトは全て西回りで、くるっと世界一周した体になったのである。
プラハとボストンについての詳細は番外編で。
2月上旬にプラハを訪れた時には空港はいつも通りの混雑で、普段と何ら変わりはなかった。
2月中旬にボストンに滞在しているころから、現地ニュースでは盛んに「中国ウィルス」のトピックスが報じられていた。
日本の豪華客船のニュースも連日報道された。
ボストンおじさんと、
「怖いね。何だろう。日本は大丈夫なんだろうか?」
なんてヒソヒソ話していた。
不安に思いながらもボストンは至って平和だったから我々はすぐに不安なトピックスを忘れていた。
日本への帰国のためにJFK空港に行って、初めて今回のウィルス騒動が深刻なのかもしれないと、少し現実味を帯びて感じられた。
何故ならばアジア方面への乗客がほとんどいなかったからだ。
便は欠航はしていないのだが、乗客のキャンセルが相次いだらしい。
私はエバー航空に乗ったのだが、ほとんど乗客はいなかった。
おかげで、三列席を独占し、横になってゆっくり眠ることができた。
日本への帰国後、私は二週間程度で準備をして猫を連れて三月上旬にはトルコへ戻る予定だった。
しかし、よく調べてみると猫を日本からトルコへ連れていく場合、検疫の為の膨大な工程と少なくとも90日の待機期間が必要であることを知った。
数年前までは10日間ほどの準備で持ち込みが可能だったらしく、私は誰かのトルコブログを読んで軽く考えていたのだが、2020年時点では大変な手間と時間がかかるように変更になったようだった。
とりあえず、一番最初の工程のマイクロチップと一度目の予防接種だけは済ませて、単身トルコに飛び、残りの工程をペットシッターさんにお願いして、90日後に猫を迎えに再度帰国する予定で、再度日本を後にした。
今回はエフェスおじさんのフィットネスの先生達が、イスタンブルで開催されるボディビルコンテストに出場するということで、クラブの希望者が合宿スタイルで参加できることになっていた。
もちろん私は運動音痴で、フィットネスなんてやったこともないのだけれど、日本でのボディビルコンテストの面白さは噂に聞いていたし、ましてや外国のボディビルダーなんて日本など及びもつかないほどクレイジーなのだろうと、大変な興味を抱いていた。
部外者だけれども特別に参加させてもらえることになり、私はわくわくして集合場所へ向かった。
集合場所はクシャダスのお隣のセルチュクという小さな町で、マイクロバスが我々を迎えに来た。
参加者達は、田舎者丸出しで、たった4日間なのに荷物がやたら多かった。
イスタンブルは都会だから必要なものは現地のコンビニで買えるだろうにと、突っ込みどころ満載ではあったが。
その中でひときわ異彩を放っていたのが、エフェスおじさんで、彼だけは全くの手ぶらだった。
旅慣れているのか不潔なのかわからないが、荷物は老眼鏡一つで、靴下の替え一つ持っていなかった。
驚いた私が、現地で買うのかどうか尋ねると、4日間程度なら着の身着のままで過ごすと朗らかに笑った。
後日談ではあるが、彼は三日目位に、微笑みながら、カピカピになった靴下を丸めて投げてよこし、私は地雷を受け取ったかのように大慌てで投げ返したが、おじさんはげらげら笑いながら執拗にそれを繰り返した。
所謂スメハラであろう。
あの激臭とカピカピ感は忘れられない。
そういえば、今は亡き父も、三日ほど履いた靴下を娘達の鼻先に持ってきて、娘達が絶叫して逃げるのを面白がっていた。
国は違えど、おじさんの考えることは一緒なのである。
さて、会場はイスタンブル郊外のグリーンパークホテルで開催された。
ザ グリーン パーク ペンディック ホテル & コンベンション センター イスタンブール
チェックインカウンターから、既に我慢できずに脱ぎだす者まで出る始末で、万国共通で、マッチョは脱ぎたがりが多いと思い知らされた。
ロビーフロアーはイベント会場につながっていて、ちらほらと半裸の男たちが歩き回っていた。
コンテストはとても楽しかった。
シニアの部、バリアフリーの部、ティーンの部、女性の部、などに分かれて筋肉を競い合った。
しかし女性部門に関しては全くボディビルではなかった。
単なるお色気水着コンテストみたいな感じだった。
女性達は筋肉質であるものの、ボディビル体型ではなく、普通にお尻が丸出しのちっちゃいビキニをつけて、長い髪をかき上げたり、後ろを向いておしりをプリプリ振って、お色気を競い合っていた。
アメリカや日本のようなガチムキは、トルコのボディビルダーにはあまりいなかった。
男性に関してもほとんどがフィジーク選手で、古典的なボディビルダータイプの選手は少なかった。
当然日本のような面白い掛け声なんかはなく、至って真面目にカッコ良さを競い合っていた。
私だけの考えかもしれないが、日本のマッチョは若干お笑い要素があり、当人もそれを容認しているように思えるのだが、トルコのマッチョは違った。
ふざけた感は一切なく、真剣に自分がカッコいいと感じているように見えた。
ちなみに私は見たことがないのでボストンおじさんに聞いた話だが、アメリカのボディビルコンテストは、一つのポージングが異様に長く、その間不自然に歯をむき出して微笑み続けているので、相当気味が悪いそうだ。
そして、アメリカのボディビル達にもやはりおふざけ感は無かったそうだ。
賃貸契約
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2020年2月
クシャダスではインターネットで知り合ったHさんに紹介され、毎週水曜日にヨガスクールに通っていた。
ヨガスクールでもトルコ人やドイツ人の友人ができたし、ホテルの前にある海沿いの遊歩道を歩いている時に知り合った友人も数人できた。
何故かロシア人の友人から日本人情報を聞いたりして、私は極力この小さな町に住む日本人と全員友達になろうと考えた。
理由はこうだ。
一人しか頼る人がいなければ、その人だけに負担がかかるから、こちらも気を遣うし、向こうもいちいち相手をするのが億劫になるだろう。
一人暮らしの気ままな私はいつでも自由だが、彼女たちは家庭を持っているのだから、そうそう頼ってばかりもいられない。
かといって、完全に一人で何もかもこなす自信はない。
じゃあ分母を増やせばいいや、と、単純な理論である。
それぞれ得意分野はあるだろう。
仲良くなって、彼女たちの得意分野を見極めて、分散して相談しようと考えていた。
そして私は最終的に8人の日本人を見つけて親しくなることができたのだが、同じクリスチャングループの4人以外は、それぞれが長年この地に住みながら、それほどの接点がなかったという点が興味深かった。
彼女たちはトルコ語も達者だし、トルコ人の配偶者もいるから、別に日本人同士でつるむ必要もなかったからだろう。
だからこの町に住む日本人で最も新参者の私だけが全員を知っているという奇妙な感じになってしまった。
二週間も滞在するうちに、私はすっかりこの土地が気に入り、プラハやボストンに行くまでもなく、ここに住む事をすんなり決心してしまった。
それほどまでに、この土地は私の肌にとても良く合った。
エフェスおじさんは私の送迎担当として、しばしば活躍してくれていたし、家探しはヨガの先生が不動産おじさんを紹介してくれた。
日本人は金持ちだと思われているのか、最初はやけに高い物件を薦めてきたが、予算を1000で希望して探してもらった。
街角の不動産のポスターを見ると、1500~2000位が最も多い価格帯だったので、1000というのは厳しそうだったが、一年分前払いをする条件でディスカウントしてくれる物件を捜してもらった。
そして条件に合う物件が2件見つかったが、現地を見せてくれた不動産おじさんは、浮かない顔だった。
「マンザラがないんだよね」
マンザラとはトルコ語で景観を意味し、トルコ人のマンザラへのあくなき欲求には本当に驚かされた。
歩くと死にそうな急傾斜の山を無理やり切り開いてマンションをおったてる。
われわれ日本人の考えでは、まず、交通の便。
小学校の近く、病院の近く、スーパーの近く、などの利便性を求めることが多いと思う。
しかし、トルコ人の価値観では、まず、マンザラなのである。
というわけでおじさんが浮かない顔をして見せてくれた激安物件は、日本人の私にとっては最高の立地だった。
クシャダスには鉄道がなく、バスだけが公共交通機関である。
そのバスターミナルまで歩いて三分ほどのプール付きのこぎれいなマンションだった。
しかも24時間スーパーと市民市場も徒歩5分以内の立地である。
立地ではこれ以上望めないほどの好条件だと私には思えた。
しかし、不動産おじさんは、もう一つの海の近くの小さなマンションを強く推した。
「マンザラは見えないけどデニスが近いから」
デニスとは海の事であり、マンザラはすなわちエーゲ海が部屋から見えるかどうか、である。
おじさんとしては海が見えなくてもせめて海の近くに住みたいだろうと思ってたらしい。
ここは今住んでいるホテルの近くで繁華街で海沿いの遊歩道にも近い、いわゆる観光通りにある物件だ。
だから私が即決でマンザラもデニスもないアパートを選んだことにひどく驚いてはいたものの、そこはプロなので着々と契約の準備を進めてくれた。
もともとそのアパートは月額1500だったのだが一年分先払いする条件で1000にしてくれた。
冷静に考えると、すごい割引だが、この地は夏の別荘として三か月だけ借りる人などが多くて冬場は稼げないらしいので、一年借り上げるということは大家さんにとってもそれなりにメリットがあるらしかった。
プールと守衛さんが付いていて、ごみの回収も守衛さんが全部やってくれて、共有スペースも管理人さんがいつもピカピカに磨き上げてくれている。
とても清潔なアパートだった。
家具家電調理器具や食器まで揃っていて、体一つで入居できる。
これで日本円にして2万円とは本当にありがたい話である。
16畳ほどの広々としたリビングに意味もなく広い廊下と8畳ほどの寝室バスルームという間取りだ。
また、広いバルコンがあり、そこから出入りするのだが、日本の玄関のようにスペースがあるのでそこで靴を脱げるのも日本人の私には大変気に入った。
トルコの一般的な出入り口は、(その時住んでいたホテルも同じ)玄関がなくドアを開けるとダイレクトに床なので、その隅っこの狭いスペースで靴を脱ぎ、当然床とつながっているので床は埃っぽくなり、いやだな、と思っていたところだった。
私はすっかりご機嫌で賃貸契約を交わした。
トルコ語が読めないので、Yさんに読んでもらって確認してからサインした。
その後、電力会社と水道局で開通の手続きをした。
海外で迎える新年
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2020年1月
クリスマスにトルコ入りして年末年始を海外で迎えた。
海外でお正月を迎えるのは2000年以降なんと20年ぶり。
忘れもしない。
その昔、ジュネーブのホテルで新年を迎えたのだった。
思い起こせば、この時が私にとってアジア圏以外での初の海外旅行だった。
1999年のクリスマスイブに日本を出発してロンドン→ローマ→フランクフルト→ジュネーブ→パリと周遊して回った。
当時はユーロがなかったので、国境のたびに両替を繰り返し、あわただしい旅だった。
確か日本旅行のグループツアーだった。
日本航空の直行便で成田→ヒースロー間がダブルブッキングの為ビジネスクラスにアップグレードされた。
ツアーガイドさんが
「みなさーん。アップグレードです~」
と道頓堀のグリコみたいなポーズでチェックインカウンターから走ってきたのをよく覚えている。
私はそもそも長距離フライト自体初めてだったので、それがどんなにラッキーなことかさっぱりわからなかったのだ。
実際乗っては見たものの、座席も広いし食事も普通にレストランみたいだし、快適だな、とは思ったが、長距離路線はこれがデフォルトなのだろうとさして不思議にも思っていなかった。
そして帰りにエコノミーに乗ってみてその差に愕然としたものだ。
観光バスと変わらない座席の狭さと、給食みたいな質素な食事。
この段階で、ガイドさんが走り回るほどうれしがってた理由をようやく理解した。
私は人生のかなりの量の運をこの時点で使ってしまったかもしれない。
あれから20年。
この旅行をきっかけに、私は毎年、年に一度の海外旅行をささやかな楽しみに、仕事に励むようになっていた。
奇しくも20年後、私は日本を離れ、異国の地に居住しようと旅立った。
本当に偶然ではあるのだが、それは2019年のクリスマスイブの事だった。
図ったかのように、それはきっかり20年後の事なのだ。
クリスマス当日にトルコに到着したはずなのに、ちっともクリスマスの雰囲気が無かった。
イスラムの国だからなのかな?
と思って気にしていなかったのだが、後で理由が分かった。
トルコのクリスマスは大晦日だったのだ。
トルコではクリスマスを「ノエル」と呼ぶ。
オアシスのノエルギャラガーが好きな私はついつい彼のつながった眉毛を想像してしまった。
そういえば、トルコ人の男性も眉毛がつながった人が多い。
日本人の顔ってなんてあっさりしてるんだろうと、私は自分の素朴な顔を見てつくづくそう思う。
まあ、なにはさておき、眉毛のつながった人がたくさんいる国で、眉毛がつながったミュージシャンの名を持つお祭りがいよいよ始まる。
ちなみにサンタクロースは「クリスマスのお父さん」
という意味のトルコ語「ノエルババ」と呼ばれている。
日本の大晦日のように厳かではなく、欧米のクリスマスのように豪華でもない。
ケーキとチキンを食べ、男性が女性に花束を贈る。
それだけのシンプルな行事である。
まあ、あくまでも異教徒のイベントだからさらっと流しておく程度なのだろうと想像した。
エフェスおじさんは夕方に私のホテルに現れて、義理堅くもケーキと花を差し入れてくれて、慌ただしく自宅へ帰っていった。
その夜私はクシャダスの街でカウントダウンライブを楽しんだ。
最終候補地へのお試し居住
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2019年12月
さて、海外移住についての意思はほぼ固まったものの、最終的に悩んだのは、本当にクシャダスで良いのか?という点だった。
今まで漠然としたイメージで考えていた移住が、トルコに行ったとたんに現実感を持ち出した。
あまりに急な展開で、自分でも少し心配になったため、少し冷静になるためにも、少しクッションを入れようと思った。
そこで、最終的にクシャダスと他の土地も二か所候補に加えてみた。
プラハとボストンである。
プラハは以前、BFが住んでいて過去に二週間程度の滞在は何度かしていたので、少しだけ地の利があった。
とても小さな美しい街で、公共交通機関がとても充実しているため、どこに行くにも困らない便利な街でもある。
住む場所も友人が手伝ってくれると思うので何とかなりそうだった。
仕事も日系企業が多くあり、求人もそれなりにあったので、経済状況によっては働くことも可能だと思われし、就労のビザも比較的簡単に取得できるらしいと聞いた。
物価はトルコほどではないが日本に比べると若干安く、治安も良かったので、候補地として今回も滞在することにした。
ボストンは友人の勧めで、お試し滞在をしてみることにした。
日系企業のコールセンターなど働く場所はたくさんあったし、逆に物価が日本よりもかなり高いので、絶対、働かないと資金がショートすることは目に見えていた。
今回招待してくれたのは、旧知のボストンおじさんで、おじさんの大きな家にゲストとして招かれていた。
初めてESTAを申請し、おじさんの住所を登録させてもらった。
ただ、アメリカはビザが大変厳しいらしく、おじさんは、長年交際していた日本人女性がいたのだが、新婦が結婚時のビザ取得の過程で立腹して、数か月で離婚されてしまったという悲惨な過去の持ち主である。
とても複雑な書類の提出と複数回の長い尋問のような面接がかなり、ストレスらしいということはおじさんから聞いていた。
実際、ビザ取得の為に専任で弁護士を雇ったとすら言っていた。
しかし、運の悪いことに、あまり優秀な弁護士ではなかったらしく、奥さんは立腹し、もうビザなどいらぬわ!と日本に帰ってしまったのだという。
就労ビザの場合についてはよくわからないが、この分だと簡単ではないんだろうなと、予想はついた。
この前情報の段階で、ボストンに住む可能性は極めて低いと思ったが、アメリカにはまだ行ったことがなかったので9割がた旅行気分で滞在することにした。
プラハとボストンの滞在先は決まったものの、トルコには旧知の知人がいない。
唯一の水先案内人がほとんど言葉の通じないエフェスおじさんだけではあまりに心元なさすぎる。
4日程度のホテルを探す分には問題なくても一か月暮らす場所を探したり、実際に生活をするにあたっては「トルコ語を話せる日本人」あるいは「日本語を話せるトルコ人」の協力が必要だと考えた。
インターネットで検索し、旅ロコというサイトを見つけ「クシャダス・日本語」で絞ってみると、現地在住の日本人が見つかった。
ロコタビ | 海外在住日本人ガイド(ロコ)があなたの旅をお手伝いします。
私は早速彼女に連絡を取ると、こちらの意向を伝えた。
彼女は私の意向を理解すると、現地で居住用のアパート探しと賃貸契約を手伝ってくれると快諾してくれた。
最終的には彼女が紹介してくれたホテルの価格にエフェスおじさんが合わせて、おまけに空港送迎をつけてくれたので、私はおじさんホテルを選んだ。
100トルコリラ(2000円の激安)で街の中心部の平坦な立地であった点と洗濯機が付いていたのでそれも決め手となった。
Hさんの見つけてくれたホテルの方が広くて景色がとても美しかったのだが、高台にあるので歩くのが大変なのと、洗濯機がなくて、週に一度洗濯物をフロントに頼むという方式だったのが気になったせいでもあった。
調査開始③生活費のめやす
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2019年11月
クシャダスはとても良い街だった。
人口6万人程度のリゾートの街で、夏には国内外からのツーリストでごった返す。
ビーチはイモ洗いのように混雑し、路駐で車の運転もままならないほどになると聞いた。
しかし、私が訪問した10月はピーク期を過ぎていたのでそれほどの混雑はなかった。
気候はまだ真夏並みであり、昼間はキャミドレスで歩き回っても汗ばむほどだった。
朝晩はそれなりに冷え込んだが、日本の10月とは全く違った。
気候が温暖で雨が降らず、湿気もない。
5年前に転勤で引っ越してきて、日本一雷の多い県に住む私は、鉛色の空には、もう飽き飽きしていた。
この県では、ほとんど毎日雨が降る。
だから、鉛色に空が曇っていても、雨が降らなければ
「今日は晴れている」
と宣う体たらくなのある。
そんなわけで、5年ぶりの雲一つない空は私の心をとても軽くしてくれた。
私は滞在中朝から晩まで町中を練り歩き、スーパーやカフェ、不動産屋の張り紙などを見て、大体の物価を把握しようと試みた。
スターバックスの一番安いコーヒーが7.5トルコリラ(150円)
500のペットボトルの水が1トルコリラ(20円)
オレンジやリンゴは1キロで5トルコリラ(100円)※季節によって前後するらしい
1LDK~2LDK位のマンションは家賃が1000~1500トルコリラ(2万~3万円)程度のものが多かった。
トータルで判断すると、私の感覚では、クシャダスの物価は日本の1/3程度に感じられた。
光熱費についてはよくわからないが、おじさんの家は4人家族で500トルコリラ(1万円)程度だと言っていたので、一人暮らしであれば200トルコリラ(4000円)位であろうと予測できた。
携帯については、日本のようにキャリアと契約して一緒に端末を買うというシステムではなく、本体を買ってからシムを買うという方式のようだった。
シム自体はとても安かった。
居住許可証を持たない外国人は原則的に旅行者用の使い捨てシムを購入しなくてはいけないが、トルコ人に代理で契約してもらえれば、スターターシムが120日80トルコリラ(1600円)で買える。
750分の音声通話と1000SMSと2Gがセットになっている。
120日経過後は28日ごとの更新で、29トルコリラ2G(700円)~60トルコリラ18G(1200円)の範囲で選べた。
自宅のインターネットはまだADSLが主流のようで、75トルコリラ。(1500円)*1
生活必需品については日本に比べるとかなり安いのだが、贅沢品のような、電話機本体、車、ガゾリンは日本より高かった。
仮にiPhoneを例にとれば、当時3世代遅れだった7が5000トルコリラ(10万円)で、面食らった。
私は今回は調査の段階なので、本体は買わずに日本の携帯にシムを挿して使用していた。
しかし、外国製の携帯電話は120日経過すると使用できなくなる。
それ以降も使用したければ、1800トルコリラ(3,6万円)の輸入税を支払う必要がある。
自動車についても携帯のようにやけに高額だった。
1300cc程度の小型車でも新車なら17,5万トルコリラ(350万円)以上かかり、20万キロ乗りつぶしたような、日本では間違いなくスクラップ場に積み重なっているような粗末な車でも5万トルコリラ(100万円)だった。
短期間で可能な限りの情報を集め、トルコでも、やはり首都圏と地方では生活費がずいぶん違うのだろうと推測できた。
日本では私は東京に暮らしたことがないので、わからないのだが、地方都市ならば、女性の一人暮らしなら15万円程度で十分暮らせる。
全体的な物価を鑑みるとトルコでは5-6万円で暮らせそうな感じがした。
そして私は帰国した。